- 2020/06/24
- 老子
第七十一 知病
第七十一 知病
知不知上、不知知病。夫唯病病、是以不病。聖人不病、以其病病。是以不病。
心に病める者
自分が知らないと自覚している者は最高だ。知らないのに知っているふりをしている者は、心が病(や)んでいるのだ。そして、心が病んでいることを病んでいると自覚する者の心は健全だ。聖人の心は病んでいない。というのは、聖人は心が病(や)んでいることを病んでいると自覚しているからこそ、聖人の心は健全と言えるのである。
第七十一 知病
知不知上、不知知病。夫唯病病、是以不病。聖人不病、以其病病。是以不病。
心に病める者
自分が知らないと自覚している者は最高だ。知らないのに知っているふりをしている者は、心が病(や)んでいるのだ。そして、心が病んでいることを病んでいると自覚する者の心は健全だ。聖人の心は病んでいない。というのは、聖人は心が病(や)んでいることを病んでいると自覚しているからこそ、聖人の心は健全と言えるのである。
第七十二 愛己
民不畏威、則大威至矣。無狎其所居、無厭其所生。夫唯不厭、是以不厭。是以聖人、自知不自見、自愛不自貴。故去彼取此。
罰について(1)
人民がお上の権力を恐れないようになると、(通常によく行われることなのだが,為政者から)強圧手段が民衆に加えられる。民衆の住まい(生活の場)をさげすまず、民衆の生業(なりわい)を卑しめるな。為政者が民衆を嫌うことがなければ、為政者は民衆に嫌われることがないのだから。このようであるから、聖人は己自身を知って、それを表に出さず、自愛の心を持ちながら、他人に驕(おご)らない。そして聖人はまた、人に威圧を加えることを避けて、他人をやさしく受け入れる。
第七十三 任爲
勇於敢則殺、勇於不敢則活。此兩者或利、或害。天之所惡、孰知其故。是以聖人猶難之。天之道不爭而善勝、不言而善應、不召而自來、繟然而善謀。天網恢恢、疏而不失。
罰について(2)
あえて人を殺すべしと決断する(断罪の判決をする)人と、人を殺すべきではないとあえて決断する人と、これら二通りの場合に、両者にはどちらにもそれぞれいくぶんかの理にかなったところがあろう。仮の話として、天の神がある人々を嫌ったとしても、どの者が殺されるべきで、またその理由は何なのか、誰が知り得ようか。このようだから、聖人においてすら、このことは難しい問題なのだ。天の道(タオ)のやり方は争わずに勝利を手にする。無言の内に悪徳と美徳とに報い、予告しないでその結果を明らかにし、招かなくても(手の内を見せないで)ちゃんと結果をもたらす。天の網は広大である。その網の目は粗くても、何ものをも取り逃さない。
第七十四 制惑
民不畏死、奈何以死懼之。若使民常畏死、而爲奇者、吾得執而殺之、孰敢。常有司殺者殺。夫代司殺者殺、是謂代大匠斲、夫代大匠斲者、希有不傷其手矣。
罰について(3)
人民は死を恐れない。なぜ死をもって人民をおどすのか。仮に、人民が死を恐れないとするならば、そして我々が無法者を捕まえて殺せるとしたとしても、誰があえてそのようなことをするというのか。死刑執行人が殺されるということはよくあることだ。そして死刑執行人の代わりをすることは、名工(練達の大工)に代わって、手斧を扱うようなものだ。名工に代わって手斧を扱う者は、滅多に自分の手を傷つけないですます、ということはない(傷つけてしまう)。